観海亭に行くまで二十年かかったよ。

六十三回生 山口晃平

去年の至大荘に、おっさんの新人助手が一人紛れ込んでいたのを、不思議に思っていた若き助手もいたであろうから、その顛末を報告いたします。

第一章 青春時代の忘れ物

きっかけとなったのは、六月二十四日に行われた一游総会でした。この年の一游総会は、前年三月の東日本大震災発生から、昨夏に中止された至大荘行事を再開するにあたって、至大荘での津波対策や避難訓練の実施、保護者への説明、非常事態という見えないものへ備える疲弊感。助手の人数が少なく游泳訓練の安全性が確保されず、外部からライフセーバーを呼び手伝ってもらうか?など、多くの問題が指摘されていて、かなり重苦しい雰囲気の中で開催されました。

総会の中盤、小林先生が作った保護者会向けの至大荘DVDが上映されました。ゆずの曲をBGMに、至大荘の写真を使ったスライドショー。この映像の上映後から、それまでの重苦しい雰囲気は少しずつ消えていった。

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その後、若い一游会員からも話を聞くことが出来、

長谷川君の「前期日程の助手が本当に全然いない。でも隊列は九段卒業の助手中心でやりたい。」という熱い思い。

清水さんの「大学の試験と重なるけど、東京と至大荘を何往復もして助手をやり遂げる。」という強い覚悟。

そんな若き後輩たちの話を聞きながら、彼らの年齢の頃の自分を思い出していた。「地球儀に向けてダーツを投げて、当たったところが次の現場です!」みたいな、さすらいの現場監督になって、世界を舞台に働く、そんな将来の夢を抱き、親元を離れ、琉球大学で土木工学を学んでいた。世界に羽ばたけないにしても、どっちみち現場から現場へと渡り歩くのが、現場監督の宿命なのだから、どうしても学生のうちに遠い場所で、自分自身を試しておきたかった。

今考えても、この選択は必要なことだったし、間違いなく自分自身を成長させたとも思っている。それと同時に、亭長までやって体育教師になって、いまだに至大荘と関わっている同期の小林先生、水泳部のコーチやヘッドコーチをやった同期がいるなか、お世話になった母校に対して、恩返しというか貢献が全然出来ていないという後ろめたさ。なんとも言い難い、ほろ苦い青春時代の忘れ物がじわじわと蘇ってきた。あの時、もっと出来たこともあったのでは?そんな思いが、悶々と頭の中に引っ掛かり出した。

 

一游総会の翌日の月曜日、至大荘期間中の工事の工程と仕事の内容を考えてみた。職員の数の割には、現場の仕事量はそれほど多くなく、自分が有給休暇を取ってもなんとかなりそうに思えた。

過去をいくら悔やんでも、どうにもならない、ましてや変えることは出来ない。おそらく、至大荘が一年に二回行われることは今回限りの事だろう。年齢的にも自分を取り巻く環境も、本当にこれが最後のチャンスではないのだろうかと思った。至大荘助手を経験したことない自分が、数日だけ行っても役に立てないだろうし、なにより若き助手たちと信頼関係も築けないで終わってしまいそうだったので、何が何でも、前期・後期すべての日程に参加するために、有給休暇を二週間取る必要があった。

林先生の「今でしょ!」が流行る前だったから、「やるなら今しかねぇ」という思いで、現場の職員全員に、資料を作り「至大荘とは何か?」ということから延々と説明し、有給休暇を二週間取得する説得を全力で行って、なんとか全員を説き伏せた。

 

人には、ちょっとしたきっかけで、その後の人生の方向を大きく変えてしまう、出来事や出会いというものがある。人生の岐路とでも言うものか…。

今思えば、若い頃は、そういうことの連続で、毎日が成り立っていたように思う。ただ、若い子頃は、その流れに気が付かなかったり、うまく乗れなかったりしたものだ。流れに飲み込まれて、溺れそうになったり、とんでもない方向に流されていったり…。

ある程度の歳を重ね、失敗や挫折を味わったからこそ、そんな人生の流れや波のタイミングがなんとなくわかる。だからこそ、この波に思いっきり乗ってやれと思いだった。

 

まさにこの年の一游総会は、自分にとってそういう出来事であった。

もしも、あの一游総会に出席していなかったら、卒業二十年目にして、

至大荘助手デビューすることは、間違いなくなかった。そして、十歳も二十歳も歳の離れた後輩たちと観海亭で過ごすこともなかったであろう。

 

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第二章 プレ至大荘、カレー先輩誕生の時

 

初めての至大練参加が、プレ至大荘だった。この年の新人助手は、水泳部以外の子が多く、春に高校を卒業しただけあって、みんなすごく幼く華奢に感じた。

自己紹介をしながら、自分とちょうど二十歳の歳の差があるんだなぁと痛感した。この頃から、「体育科の小林先生と同級生」というと、若い子が面白いように驚いてくれるので、つかみのネタとして、いつも使うようになった。

 

入水、退水、隊列、至大荘歌、至大荘節など、すべての事を、経験豊富な助手たちから教わりながら、頭の奥深くに、沈んで消えかけていた部分から、至大荘という記憶を必死に呼び戻していった。

冷たいうねりのある海で、助手が隊列を作り、沖へ出る練習があった。泳ぎに覚えがある自分でも、ちょっと寒くて厳しいと思う海を、ゆらゆらと流されまいと必死で耐えながら泳いでいる、新人助手たちの姿を見ていたら、その頑張りに感動した。

その夜、新人助手でのミーティング中、一人の女性新人助手が、「私は、泳力もなくてみんなの足を引っ張ってすみません。助手になる資格なんてない。」って、泣きながら言った。

もちろん、その後はみんなでその人を励ましたり、みんなそれぞれ思いをぶつけ合い、その他の事も色々語り合って、助手同士の絆が深まっていって、青春的な夜を過ごした。

沖で泳いでいる時の事を思い出しても、必死で泣きそうな顔で耐えながら泳いでいたもんなぁ。そうとう、怖い思いをしながら泳いでいたのだと思った。でも泣き言一つ言わずに、彼女が頑張っていることが自分には、わかったのだから、沖の海で気が付いたときに、何か声をかけて励ましてあげればよかったのかなぁ?と思った。

もっと、泳ぎの苦手な子の立場に寄り添ってあげないといけないと、

「自分の方こそ、助手の資格無いよ。」と反省する出来事だった。

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一回目と二回目のプレ至大荘の間に、同期と集まった時、彼らが若かりし頃に行った至大荘での話を聞たり、先日の自分の報告を話したりしていて、ひょんなことから「朝飯・昼飯は、コンビニのパンとかおにぎりで、プレ至大荘での食事事情があまりにもひどく、かわいそうだったよ。」って話したら、同期の南川君が、「じゃあカレーでも作りに行こうかな♪」って言ってくれて、次のプレ至大荘には奥様と一緒に、本当に大鍋でカレー作って東京から持ってきて、他のおかずやデザートもいっぱい、持ってきてくれて、うれしかったな。後輩たちもみんな、こんな豪華なプレ至大荘は初めてと喜んでいました。

それが、「カレー先輩」誕生の瞬間でした。

 

その海の日のプレ至大荘の時、会った瞬間に、「あれっ?」っと、感じるほど、新人の若き助手たちの顔が、明らかにたくましくなっていた。わずか二週間という期間でも、十代後半の、成長著しい時期だから、ちょっとしたきっかけで、どんどん成長していくのだろうなぁと思った。

そんな彼らの若さが、すごくうらやましかった。

 

至大荘での過ごし方とか、遊泳訓練のやり方、隊列指導など、先輩助手から後輩助手へ、色々教えながら引き継いでいくのだけど、その教え方が時には厳しいけれど、実に愛に満ち溢れていた。そして、新人助手もそれに応えようと、必死に取り組んでいた。至大荘って、先輩から生徒へ。先輩助手から後輩助手へ。色々な形はあるけれど、常に先輩から後輩への愛に満ち溢れている場所なんだなぁと思った。

 

高校時代に生徒として参加した時にはわからなかった至大荘が、そこにはあった。

 

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第三章 観海亭で過ごした二週間

至大荘本番が始まる前の土曜日、観海亭に入った。今となっては、他の棟は建て替えが進み、最も古い建物の一つになってしまった、観海亭。

でも、歴代の先輩たちの思いがぎっしり詰まった、その建物は独特の雰囲気があった。ビーチ観海亭と呼ばれる場所からの、守谷の浜の眺めは、朝夕色々な表情を見せてくれて、本当に美しかった。

 

実は、高校時代至大荘に参加した時、天候が非常に悪く、遠泳も飛び込みもしていなかった。今回、初めて助手としてだが、大遠泳を経験した。

興津海岸から、ドンッっと腹の底から響く太鼓の音を合図に、生徒たちの隊列が、今はまだ見えない守谷の浜を目指して、ゆっくりと、そしてきれいに列をなして伸びていく。どんどん沖へと隊列が進み、太平洋の大海原へと隊列は進んでいく。点々と、一定の間隔を保ち、秩序正しく並んだ生徒たちの頭が描く隊列が、きれいに進むのを見ているとすごく気持ちがよかった。

この時はプレ至大荘の時の経験を踏まえて、前後左右に持てる力で泳ぎまわり、生徒みんなの不安を少しでも減らしてあげることに徹した。そして、隊列は進み、目指す守谷の浜へと曲がらず、さらに進んでいく。しばらくすると、至大荘が見えてくる。岩山に抱かれ、ポツリポツリと建物が点在し、至大荘の旗が風に大きく揺れている至大荘の姿を見たときは、生徒たちも疲れを忘れ、うれしそうな表情を浮かべていた。自分自身も、初めて海から見た至大荘が、あまりにも神々しく見え、すごく感動した。

遠泳が終わった木曜日の夜、観海亭に先生たちが来て、助手と先生が飲む機会があった。小林先生と乾杯をした。かつて水泳部主将の小林先生、副将の自分。高校時代は、学業よりも、部活少年だった二人。

そして高校卒業して二十年の月日が流れ、今こうして先生と助手という立場で観海亭にいる不思議。色んな思いを噛みしめながら、ビールを飲んだよ。

金曜日、前期の生徒たちの退荘式。森谷先生が生徒たちを見送るために歌った時、自分自身に、色々な思いがフラッシュバックして不覚にも泣いた。生徒や他の若き助手達に気付かれませんようにと祈りながら…。

前期の生徒を見送った後、ほとんどの大学生の助手たちが一時帰京し、

一人二畳以上割り当てられるほど、観海亭はガランとした状態だった。

そんな前期・後期の中休みは、最年長ながら新人助手の自分が「ペー長」になり、酒の消費に勤みました。

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堤防に立って、最初に入荘してくる生徒たちを見ていると、ふわふわしていて、落ち着きがなく子供っぽく見える。

亭長の「君たちの目からは何も感じられない!」と言われた入荘式から始まり、日々、生徒たち自身が、もがきながら、自分自身を磨き、最後のトンネルで惜別の歌を歌い見送る時は、明らかに一回りも二回りも大きくなり、実に堂々としていて、たくましく見える。

やはり、高校生の多感な時期の子達は、一週間と短い期間でも見る見るうちに変わっていく。まだ何者とも定まっていない彼らは、例えるなら

眩しいほど真白いキャンバスに、鉛筆で下書きが始まり、うっすらと線が描かれ、これからそのキャンバスにどんな色鮮やかな絵が描かれるのか、まだ想像もつかない、そんな状態か。

 

至大荘の歴史や始まりは、色々言われがあるが、一つには「先生から生徒には教えてあげられないものを、先輩から、生徒・後輩へ教えるためにある」と思う。

そして、生徒として参加しただけでは、まだ至大荘の入口に立っただけだと思う。助手として参加することにより、生徒の時には見えないものが、いっぱい見えてくるように思った。

そして、季節が巡り、夏が来るたびに、毎年それぞれの夏の至大荘があるのだと思った。

 

そんなわけで、二〇一二年夏は、至大荘で二週間、助手としてお世話になったのでした。

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