河童の便り 特別編2

「感動が商品化される時代」に観海亭について考える

26回生 森 彰英

昨年秋、仕事の関係で増田俊也さんと会った。「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という刺激的な大作で価値あるノンフィクションの賞をダブル受賞した気鋭のライターである。会う前に増田さんが「田中光常という伝説の動物写真家が函館水産(現・北海道大学水産学部)出身だったので自分も北大を志望した」とどこかに書いていたので、まず聞いてみた。「光常さんとはお会いになりましたか」「残念ながら会っていません。あの方ご存命なのですか」。そこで僕は光常さんが自分の母校、九段高校の大先輩であり、5年前の記念パーティには最長老として出席されたことを話した。そんなところからいいペースで話が進んだのだが、増田さんの生き方が面白い。名古屋の名門校が二浪して北大に入学したのだが、柔道に打ち込んで、4年間いて専門課程に進まずに中退して、新聞記者などを経て物書きになったという。
その柔道というのが、われわれが知っている講道館流の柔道ではない。昔、旧制の高校や高専で完成された高専柔道といわれる流れで、ひとくちに言えば、体力の勝る相手に対しては、最初から寝技に持ち込み、関節をへし折られそうになっても引き分けに持ち込もうとする、すさまじい格闘技の世界である。今、この流れは東大、京大、北大などの旧七帝大に継承され、これらの学校の柔道部では寝技の乱取りに明け暮れする壮絶な練習が展開されている。
増田さんは自分が過ごした世界を昨年「七帝柔道記」という作品にまとめ、漫画化「ビッグコミックオリジナル」連載)もされた。男ばかりの連帯と友情と蛮行の世界で 僕たちが過ごした水泳部の青春ともどこか似ている。この本が話題になり始めた頃、増田さんによれば、インタビューに来た女性記者たちはみんな涙を浮かべたという。「あの場面よかったですね」とか「登場人物のあの人、いまどうしていますか」などと感情移入するのである。版元では「今年で一番泣ける作品」のキャッチコピーを用意した。
そんな話が僕は「感動の商品化」という表現を思い浮かべた。ネットの時代には、人と人とがじかに触れ合って生じるリアルな感動が重視され、それを得るために代価を払う場合にあるのかも知れない。
そこで最近の至大荘について思う。生活ドキュメントのビデオを見せてもらったが、涙のシーンが効果的に使われている、大遠泳で全員完泳して浜に上がり手を取り合うシーン、キャンプファイアでの盛り上がり、退荘式での別れなど、実に効果的に涙が入る。やらせではなく、本物だからより感動的である。学校のプロモーションビデオとしては実に効果的で、これを見て入学を決意する親子がいても当然だ。
しかし、そのリアルでドラマチックな感動を支えているのが游泳助手という存在である。助手の高度な技術と精神力によって至大荘生活の安全が保障され、思い出に残る感動が味わえる。游泳助手とはなんと価値ある存在ではないか。
しかし、最近では水泳部在籍者の助手参加は年々減っているという。古い先輩からはなぜ行かないのか、観海亭の伝統が泣いているという声が出てくるが、それは無理というものであろう。いま助手たちは完ぺきを求められ、高度な技術で安全を保障し、最後に感動を与える役割を負わされているのではないか。最近は守谷から遠のいた僕にもそれがよく分かる。そんな期待感が重圧となって、水泳部と至大荘助手は別物という割り切りが生まれているのかも知れない。そんなギャップを解消して観海亭を再び一游会に取り戻すことはできないか。一游会会長の青木俊行君(45回生)がこのところ毎年助手たちと起居を共にし、昨年度は山口晃平君(63回生)が忙しい勤めの身で長期休暇をとって、なんと前・後期通して一助手として参加した体験を「一游」で読んで、頭が下がる思いである。
というところで止めておくつもりだったが、僕たちにとって観海亭とは何だったのか。半世紀余り前にタイムスリップすることをお許し願いたい。

今から80年余り前、当時の市立一中で至大荘生活が始まった時から游泳助手はあったという。だが僕たちが明確に助手という役割を認識したのは、戦争が終わって十数年目、昭和33年頃であった。それまで学校が個人的に依頼していた助手を全面的に一游会に依頼するという話し合いができて、卒業したら水泳部員はほとんど全員が助手を務めることになった。観海亭は自由自治の城である。亭長という役割を決め、学校側からかの申し入れはすべて亭長に行う。もし何かトラブルがあれば、亭長の決断にしたがい全員荷物をまとめて退荘する(そんなことは一度もなかったが)と息巻いていた。若気の至りだが、これはむしろ大人の知恵で学校側に利用された。全員一致団結で目的に立ち向かうのだから好都合である。特に游泳部長だった湯野正憲先生にはすっかり手なづけられていた。剣道の達人で、禅僧のような雰囲気を持つカリスマ的指導者で大遠泳や飛び込みなどの訓練システムはすべてこの先生が完成させた。湯野先生はことごとに「助手の皆さんの意見は」と問いかけてくる。尊重してくれているようで僕たちは責任を負わされていた。大きなイベントの前後には酒の差し入れがあったりして、実に緩急自在のコントロールであった。
当時は1期が6泊7日。2期通すと半月近い滞在になる。パソコンこそなかったが、生徒の体調などを掌握する頭脳労働と肉体労働の連続である。助手の中には体力差、泳力差もある。それでも一致団結し乗り切ったのは、同じ仲間だ、たがいにカバーしながら前進しようという意気込みであった。いやそんな高邁な意識があったわけではない。活力の源泉は、このハードな生活を乗り切るノリを作ることであった。訓練の節目では、手締めとか、海に感謝してお礼回りだとかのミニ儀式をやっていたし、毎夜、観海亭に引き上げると、トンネルで遮断されているのをいいことに少しの酒に酔ったつもりになって、奇声を発し踊り抜いた。議論もしたが、どうせ大した論題ではない。とにかく毎日がホットだった。もし当時ビデオがあれば、かなり大量な涙のシーンが記録されていたかも知れない。誰にとっても、自分でき計算できない青春の走路であった。
今年も4月旬、青梅市の武市一良氏(29回生)の家で恒例のパーティが開催された。若年寄りの会の年中行事として川原でバーベキューをして武市家の裏山で掘った竹の子を食べていたが、さすがにテント設営の肉体的負担に耐えられず、室内でのパーティとなった。武市氏は2年前大病をしたが、根性のリハビリで立ち直り、毎日プールでトレーニングしているという。集まる者十数人、名前は略すが、第26回から36回あたりまでの男女ばかり。一游会会長の青木君が夫人同伴で参加してくれた。ワインや日本酒の微酔に身をまかせ、気がつけば全員、観海亭のメンバーではないか。話題のあの当時と少しも変わっていない。「この気分、いま観海亭の連中に何十年後かに味あわせてやりたいな」と青木君がしみじみと呟いた。

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